Newsletter vol.37 論語と算盤とSDGs⑩ <福澤諭吉> 前編
豊島 敦
本連載のテーマである『論語と算盤』を著した渋沢栄一は、実業界において今日まで続く多くの企業の創設に関わった実務家であり「日本資本主義の父」と呼ばれている。その功績を認められ、現在一万円札の「顔」となっているが、もう一人、一万円札の「顔」として長年親しまれた福沢諭吉について皆さんはどの様な印象を持たれているだろうか。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」
誰もが耳にしたことのあるこの言葉は、福澤諭吉の『学問のすゝめ』の冒頭に記された一節である。福澤は思想家・啓蒙家として、日本の近代化を思想と教育の両面から支えた存在である。自由、独立、実学の精神を広め、幕末に創設した慶応義塾からは明治初年から今日に至るまで多くの経済人を輩出してきた。日本経済の根幹を形づくる価値観に深い影響を与えたという点で、福澤もまた「日本資本主義の父」と呼ぶにふさわしい人物であろう。
福澤の著作を丹念に読み返すと、「教育による包摂」「ジェンダー平等」「誰一人取り残さない」といった、今日のSDGsが掲げる価値観の萌芽が随所に見て取れる。福澤は約40年にわたり一万円札の「顔」を務めたこともあり「偉人」としての印象が強いが、晩年に記した自伝『福翁自伝』を読むと、豪放磊落でお茶目な一面を持つ、極めて人間味あふれる人物像が浮かび上がる。本連載の最後は2回に渡り、論語が大嫌いであったという、もう一人の福澤諭吉に焦点を当ててみたい。
福澤諭吉は1835年(天保5年)、九州・中津藩の下級武士である福澤百助の5番目の末っ子として生まれた。父は大阪の中津藩蔵屋敷に勤務しており、一家は長らく大阪で暮らし、諭吉も大阪生まれた。ところが、諭吉が2歳のときに父が急逝、一家は中津に戻ることとなった。大阪育ちの兄弟たちは大阪弁が抜けず、着る物も垢ぬけた大阪風であったため、中津になじめずに育ったという。生前の父・百助は、家督を継ぐ立場にない末子・諭吉の将来を案じ、僧侶にしようと母に相談していたという。僧侶であれば修行次第で昇進できるという考えからであろう。福澤は後年、下級武士に生まれた父がそう考えざるを得なかったことに同情し、「門閥制度は親の敵」と痛烈に封建制度を批判している。
16歳のころ、兄に将来どうするのかと問われた諭吉は、「日本一の大金持ちになって、思うさま金を使ってみたい」と答えて叱責を受けた。諭吉が兄に「では兄さんはどうするのか」と逆に尋ねると、兄は「孝悌忠信(親孝行と主君への忠誠)」と答えた。諭吉は「へーい」と受け流し、会話はそこで終わったという。1854年(安政元年)、福澤は「田舎の中津が窮屈でたまらない」と感じていたことから、蘭学修行を口実に藩の許可を得て長崎に向かう。中津を出発する当日の心情を、福澤は自伝で「今日こそ良い心地だと独り心で喜び、後ろ向いて唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えている」と記している。福澤にとって中津とは、門閥に縛られた封建制度の象徴であったということだろう。
その後、福澤を中津へ戻そうとする藩の動きを察知し、1855年(安政2年)、密かに大阪へ向かい、緒方洪庵の適塾に入門した。適塾では、オランダ語の習得はもとより、医学、化学、物理学、機械工学などをオランダ語の原書で学習し、化学実験なども行っていた。福澤は、まもなく学力と才覚を認められて塾頭を務めることになる。当時の適塾生は、酒を飲み歩いたり、街中で喧嘩をしたり、真夏の暑い日には真っ裸で過ごしていたりと素行の悪さで知られていたが、「唯ワイワイしていた」わけでなく、「学問勉強ということになっては緒方塾生の右に出るものはなかろうと思われる」と回想しており、自由奔放でありながらも学問に打ち込んでいた日々であったようだ。
1858年(安政5年)には、藩命により江戸の中津藩邸で蘭学塾を開くが、翌年、開港直後の横浜を訪れ、英米人を前にしてオランダ語がまったく通じないことに愕然とする。しかしここで福澤は一念発起、苦心の末、英蘭辞書を手に入れ、英語の習得に本格的に取り組んだ。語彙や文法の類似性もあって、福澤の英語力は短期間で大きく向上した。1860年(万延元年)には、幕府の咸臨丸に私的従者として乗り込み渡米を果たす。翌1861年(文久元年)には、幕府の遣欧使節団に通訳として随行し、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシア、ポルトガルを1年かけて視察した。さらに1867年(慶応3年)には、幕府の遣米使節団に加わり、三度目の洋行を経験している。
ここで、自伝に記された福澤の洋行中の印象的なエピソードをいくつか紹介する。
• ワシントンの子孫について
アメリカ人との雑談の中で「初代大統領ワシントンの子孫はどうしているのか」と問うたところ、「娘がいたようだが、その後のことは知らない」と素っ気ない返答が返ってきた。福澤は、大統領は世襲ではなく任期制ということは知ってはいたが、百年も経てば建国の偉人の子孫の消息など誰も気にしないということにあらためて驚き、自らの問いが的外れであったと悟る。
• 女尊男卑?
咸臨丸艦長がサンフランシスコのオランダ人医師にホームパーティーに招待され、福澤も同行することになった。「いかにも不審なことにはおかみさんが出てきて座敷に座り込んでしきりに客の取持ちをすると、御亭主が周旋奔走している。これは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をしている。」と男女の役割の違いを痛感する。
• 議会での討論
議院とは何をするところかと問うても、現地の人々には当たり前すぎてうまく説明してもらえず、なかなか理解できない。「保守党と自由党という徒党のようなものがあって激しくしのぎを削っている、政治上の喧嘩をしている」と説明を受ける。しかし、ひとたび議院を離れれば、議員達は同じテーブルで酒を酌み交わし楽しんでいる。こうした、議論によって政治を行うという制度そのもの、また政争と個人的な付き合いは別物という政治文化に深い感銘受ける。
福澤は、欧米の制度や技術だけでなく、社会構造や精神文化そのものが日本とは根本的に異なることを肌で実感した。福澤自身の言葉を借りれば、「二度も三度も外国に往来すれば、考えは段々広くなって、旧藩はさておき、日本が狭く見えるようになった」と述懐している。こうした体験こそが、福澤の生涯を貫く「啓蒙」と「教育」への情熱の源泉となったのであろう。
次回〈後編〉では、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』といった福澤諭吉の代表的著作に込められた、経済倫理、女性観、公共精神などの思想が、現代社会においても持続可能な未来の指針となりうることを考察したい。




【参考文献等】
・福澤諭吉「福翁自伝」青空文庫
・福澤諭吉「学問のすゝめ」青空文庫
・福澤諭吉「文明論之概略」青空文庫
・福澤諭吉「女大学評論」青空文庫
・平川祐弘「進歩がまだ希望であった頃-フランクリンと福澤諭吉-」講談社学術文庫
・杉山伸也「福澤諭吉と文明開化」郵政博物館 研究紀要 第10号(2019年3月)
豊島 敦 (Toyoshima Atsushi)
株式会社アスカコネクト 顧問
新卒で全国信用金庫連合会(現 信金中央金庫)に入庫、おもに投融資業務に携わる。1997年~2002年ニューヨーク支店にて、北米クレジット投融資、ストラクチャードファイナンス投資などを担当。その後、ニューヨーク駐在員事務所長、名古屋支店長、法人営業推進部長、中小企業金融推進部長を歴任。2021年理事に就任、2024年6月退任。現在は常勤の他、株式会社地域金融研究所 特別顧問、クオンタムリープベンチャーズ株式会社 アドバイザー、 及び Tranzax株式会社 顧問を務める。
W.P. Carey School of Business , MBA